おはようございます。
サルタの街にきて2日目、標高が高いせいか、また10℃くらいに逆もどりです。それでもここは落ち着いていていい街です♪
さぁ、今日はパラグアイの日本人移住地「ラ・コルメナ」で、
幸運にも当時のお話を伺うことができましたー!
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初めての方はこちらから→【始まりの物語】 【旅のあらすじ】
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◆7月28日 8:45
起きて、しばらく街をぶらぶら。
さて、せっかくパラグアイ初の日本人移住地にきてるんだ
そろそろ「日本」の片鱗でも探そう。
事前の調べによれば、ここには「移民資料館」なるものがあるらしいのだが…
場所とかの情報が一切分からん。
それで車で街をうろうろしていると、
第一日本人らしき人発見!
「あの~資料館は?」「あー、それならあっちやで!」
「おー、やっぱり普通に日本語だ。何も違和感ない」
そして、言われた場所へ行くとそこは薬局。
「ごめんくださ~い」
「は~い。」
流暢な日本語が返ってきた。
受付にいらした年配の女性は、見るからに日系の方。
話によると、その方は
この資料館を作った田中秀穂さんという方の息子さんの奥様にあたるらしく
今は、資料館を管理されているという。
早速、隣の資料館へと案内してもらった。
ここには1936年以降の入植者たちの初期の様子が,写真で展示してあります。
たまたま、去年日本からここに引っ越してきたというご夫妻に会いました。
え、引っ越してきたんですか??教会の宣教活動の一環だそうです。
その後、嬉しいことに田中さんのご自宅にご招待してもらいました。
そして今日は日曜ということで、薬局もお昼で閉めるということで、
お昼をご馳走になりながら、ご夫妻に入植当時の話を伺います。
ここでは日中は、マテ茶の冷たい版「テレレ」を飲むそうです。
【旅追う動画】「No.25 パラグアイ日系人の方のお宅でご馳走に!
それでは早速、色々とお話しを伺ってみたいと思います。
ご主人の田中さんは1941年生まれで、今年で御年72歳。
このラ・コルメナ市の初代市長をされた方でもあり、
1936年からの入植初期を知る、まさに歴史の生き証人といえる方です。
先日イグアス移住地に行き、その後日系移民について色々知って、
当時の事を聞きたいなーと思ってただけに、本当にラッキーでした。
貴重なお話だと思うので、覚えてる範囲で出来るだけ書いてみようと思います。
自分:
「入植当時の様子はどうだったんでしょうか?」
ご主人:
「とにかく大変だったよ。食うものがなくてね。うちの父は軍医だったから少しは生活がマシな方だったけど..」
田中さんのお父さんで、先ほどの資料館を作られた田中秀穂さんは、日本の軍医で、満州で滞在したのちに、ブラジルに派遣される。1930年代ということは、まさに日本からのブラジル移民のピークの頃。そしてその地で7年間を医者として過ごされる。
しかし、世界的な不況のあおりで、徐々にブラジルにおいても失業率が高まり、海外からの移民を制限しようということになる。それで、じゃあ日本人の新しい移住受入先を探そうとなって、白羽の矢が立てられたのが、パラグアイのこの地だった。
そして、お父さんの田中秀穂さんを初めとした数名の日系ブラジル移民の方が、いわゆる「指導移民」として、新たに日本からこの地に移住してくる人達と共にこの地に入植した。
ご主人:
「当時の移住者は、基本的に農業従事者で、それ以外にも国からの給料をもらってきていた教師や医者がいたんだ。それで、みんなで開墾を始めるわけだけども、移住地の受入準備が間に合わず、とにかく着いた当初は殆ど何もない状態だった。」
自分:「この国の野菜の多くは、日本人が持ち込んだと聞きましたが」
ご主人:
「そうだね。パラグアイ人は本当に肉しか食わないよ。あんな食事は私らには無理だね。今でも家ではご飯(アルゼンチン米)と味噌汁だよ。昔は野菜も米も味噌もなんでも自分達でも作ったよ」
自分:
「今は違うんですか?」
ご主人:
「やっぱり、こんな場所で農業をしたって難しいんだよ。周りのブラジルとアルゼンチンから安くて質のいいものがどんどん入ってくる。だから、今では農地は縮小してるんだ。」
この地では、一世帯当たりの土地が限られているらしく、大規模で効率的な農業がなかなかできない。だから、大国から入ってくる物に勝てない。お話のなかで、この言葉は度々聞かれた。これには相当強い思いをお持ちなのだと思う。
ご主人:
「それでも、ブラジルやペルーよりは、状況ははるかにマシだったと思うよ。」
日本からの海外移民の形態は、大きく分けると「契約移民」と「自由移民」の2つ。前者は、初めから農場の小作人として契約して現地で働くことで、そこで過酷な労働環境や現地人農業主との主従関係、など本当に大変な苦労が待っていたという。それに対して、パラグアイでの移民は、初めからある程度の土地を割り当てられ、そこを自由に開拓し、農業を営むことができた。
ご主人:
「それでもやっぱりここでの農業は厳しいから、今ではどんどん住民が外に出てってしまうんだ。アルゼンチンのエスコバールなんて、ここ出身の人ばっかりだよ」
自分:
「え、エスコバールですか!?」
まさに僕らがお世話になったアルゼンチン日系2世のウーゴさんがいるところだ。そういうことだったのか…
(※記事⇒「ツイッターでの出会い」)
自分:
「ブラジル移民の方とかとの交流とかはあるんですか?」
ご主人:
「今でもブラジル移民の人たちとの交流はあるけど、向こうでは本当に大変だったらしい。戦時中もかなり苦労してるよ」
自分:
「田中さんが生まれた1942年と言えば、まさに太平洋戦争が始まって、日本とパラグアイって敵国同士になったんですよね?その頃はどうだったんですか?」
ちなみに、田中さんは軍人だった父の影響から、パラグアイの士官学校を出ている。「毎日のように棒で叩かれてね。でも泣くのもできない。」と当時の辛い体験も伺った。
ご主人:
「ここではあまりパラグアイ人との対立とかはなかったよ。やっぱり、日本語学校は閉鎖されたけど、それでも皆自宅などで日本語を勉強していたよ。それに食料もあったしね。」
これと比べて、ブラジルやアメリカでの日本人移民は、現地で差別され、様々な抑圧を受けた。
ご主人:
「そりゃ、植民当初はパラグアイ人との間にも色々あったよ。ものを盗まれることもよくあった。でも、日本人の勤勉で誠実な様子をずっとそばで見てたから、次第に関係も良くなってね。今では本当に友人同士だよ。お互いに変わったと思う。」
今ではパラグアイは南米でも最も親日的な国の一つになっている。
ご主人:
「それでも、イグアス移住地とかではまた話は違うんだ。向こうは、まだ若い移住地だから日本コミュニティがより閉鎖的なんだ。だから、もっと色濃く日本らしさが残ってるんだよ。」
自分:
「やっぱり、ここの人たちは日本人であることを大事にされてるんですね。」
ご主人:
「そうさ。だって、そもそもは皆数年で日本に帰る予定で来てたからね。みんなそうだったよ。でも、結局、父は一度も日本には帰らなかったね。」
自分:
「どうしてですか?」
ご主人:
「それは私も聞いたんだ。でも、『戦争で親戚も親兄弟も死んでしまったから、帰っても仕方がない』と言っていたね。」
数年で日本に戻るつもりで来たのに、そのまま二度と祖国を見ることがなかった。どんな気持ちだったのだろうか。
自分:
「他の人たちも戻らなかったんですか?」
ご主人:
「いや、戻った人もいたよ。特に、本国から給料をもらってきていた医者、教師、軍人は皆帰ってしまった。」
戦争に負けたことで、もう給料がもらえなくなったのだ。
ご主人:
「でも、もしかしたら帰国した人たちの方が大変だったかもしれない。食糧事情が悪く、ここの学校の校長先生だった人も、帰国の船で亡くなってね。」
ここには食糧はあったそうだ。
ご主人:
「でもやっぱり日本は負けてよかったと思うよ。日本はあまりにも大きくなり過ぎていた…」
…やはり、日本生まれの1世と、現地生まれの2世の方とでは、日本に対する意識が違うのだろうか。
ブラジルの日系移民の間で起こった、いわゆる『勝ち組』と『負け組』の対立も、もしかしたら2世以降の方にとっては理解しがたいことなのかもしれない。
※wikipediaより
『勝ち組』と『負け組』・・・太平洋戦争終結後、戦時中「敵国人」として扱われていた為の情報不足により、日本が「ブラジルやアメリカ合衆国などの連合国軍に勝った」と信じていた人々の集団(勝ち組)と、これとは逆に「日本が負けた」と思っていた人たち(負け組)との間で対立が生じた。
いや、当時を理解できないのは自分も同じか。平成生まれの自分には、戦前戦中のことになると、どうしても遠い過去の歴史に感じてしまう。いくら知ったところで、それは経験に基づいた知識ではないのだから。戦争世代と僕らでは、日本に対する認識にあまりにも大きな断絶がある。
ご主人:
「ブラジルでは悲惨だったよ。日本の勝ち負けを巡って、日本人同士で殺しあったんだから。」
日本からの情報をラジオを聞くこともままならなかったブラジルに比べて、ここではお父さんの田中秀穂さんが、毎日、日本のラジオを聞いて、その情報を紙に書きだして街中に貼って、戦況を伝えていたという。戦争が終わっても、日本のニュース聞いて書き出して掲示するのが日課だったそうだ。
ご主人:
「もうラジオは、父の死ぬまでの日課だったよ。『〇月〇日、巨人が勝った』とかも、み~んな書き出してたんだから。」
自分:
「すごいですね。そもそも日本の情報が入ってくるんですね。」
ご主人:
「そうね。今では毎日テレビでNHKを見てるよ」
そう言ってテレビを見せて頂いた。
すごい!NHKだー!
テレビの名前は「TOKYO」、だけど中国企業のらしい。中国恐るべし…
さらに、その場にあったハープを演奏してもらう。すごいー!
【旅追う動画】「No.24 日本移住地で美しいハープの音色」
そんな田中さんご夫妻ですが、数回日本に行かれたことがあるそうです。
奥さん:
「日本はすごいわ。本当に何でもあるし良いところね。」
ご主人:
「それに、この街にも日本政府からすごく援助してもらってるんだ。」
自分:
「え、そうなんですか!?」
奥さん:
「本当に、私たちも何でこんなに援助されてるか分からないんだけどね(笑)」
自分:
「いやー全く知らなかったです。」
ご主人:
「まぁ、知らない方がいい事もあるよね。」
自分:
「え…(笑)」
自分:
「でも、日本で住もうとは思わないんですか?」
ご夫妻:
「そうしたいけど、それは無理かな。」
直接理由は伺えなかったけども、
ご主人から伺ったある話が気になった。
ご主人:
「私が市長の時にね、日本に視察にいかないかという話があったんだけどね。『冗談じゃない、行けないよ』と断ったんだ。日本なんて行ったら、自分の変な日本語をバカにされてしまうよってね。」
もちろん、そんなことは少しもないし、むしろ僕らより綺麗な日本語を話すことに驚いたくらいだ。
もしかしたら少し冗談の意味も込めての言葉だったのかもしれない。
それでも、その短い言葉にどんなな気持ちが込められているのだろうか
日本は本当に何でもあっていい国。ならば住めばいいのに…と思ってしまう自分
ここの事情を全く理解していないのだなぁ、とつくづく思い知らされる。
無知ならまだいいものの、中途半端なイメージで勝手に色々考えてしまう。
そうしたわかったつもりが、間違ったイメージを生み、それが「もう知ってるから」という無関心を生み、最終的には無知な状態に陥ってしまうのかもしれない。そうして、これまで歩んできた自分たちの歴史までもを忘却してしまうのだろう。
この地で起こったことを自分が全く知らなかったのが、まさにその例だと思う。
かつて日本から海を渡った人々がいた。しかし、時の経過とともに、いつしかそんな事があったことさえ忘れてしまってる。では、もう自分とは関係がないことなのだろうか。
そうではない。ここ最近、在外日系人が再び日本に働きに来ることがかなり増えているらしい。
また、先ほど資料館で会った夫妻のように、逆に日本から移住していく方もいるそうだ。
だから、知れることは知りたいと思う。
だから、これからも南米の日本人移住地には出来る限り足を運びたいと思います。
(多分、次はボリビアにあるという「オキナワ移住地」に行きます!)
さて、かなり長居してしまったので、そろそろ出発しなきゃ。
最後に、記念写真と車にメッセージを書いてもらう。
そして、この近郊にある、富士山に似ているという、その名も「コルメナ富士」に登りに向かいます。
しかし、なんと…
何!!この山がコルメナ富士じゃないって!?
ということで、途中で引き返して、一路首都のアスンシオンへ戻りました。
おやすみ~