2013年7月30日 林 季一郎

僕の知らない日本人移住史

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おはようございます!

さぁ、車旅にもまた慣れてきて、徐々に調子も戻ってきました。
この調子で、どんどん南米の奥地へと入って行きましょう!

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◆7月25日 9:30

起床。鼻炎が悪化して、頭が少し重い

そんないつもの如く冴えない朝です。

「あぁーー、でも日記を書かねば…」とネットが使える宿の中へ

(俺らは車で寝るので、ネットとシャワーだけ使わせてもらってる)

 

そして、パソコンを立ち上げ、メールチェックの傍ら

ふと、「パラグアイ イグアス日本人移住地」でGoogle検索してみた。

 

「あ、出た出た。へぇー結構有名なんだなこの場所。」

「もはや『地球の歩き方』にも載ってる観光地じゃんw 」

 

さらに下の方まで見ていく

 

・・・・・・・・・

 

「へぇー、この場所って結構まだ若い移住地なのね。」

 

・・・・・・・・・

 

※パラグアイ日本人連合会公式サイトより

[イグアス移住地の歴史は...1961年8月22日に始まる。]

 

・・・・・・・・・

 

ん?でも待てよ、1961年開始だとすると…52歳ってことでしょ。

これって、俺らの親よりまだ若いってことじゃん!!?

 

てことはだよ、俺らの両親が子供の時に向こうに渡っていても不思議じゃなかったってことじゃないか。なんと…

 

急に、ここで生活する人達やこの地の情景が他人事には思えなくなってきた。

と同時に、衝撃が走った。

 

だって、日本からの移住と言えば、

まだ貧しかった日本では暮らしが厳しくて…という経済的な理由が主なはず。

 

経済大国になってからの日本で生まれた自分からしたら、

そんなことは遠い過去のことだと思っていたのに、

それがまさに今の自分と重なったのだから驚いた。

 

もちろん、〝歴史的な事実″としては知っていた。

というより、大学の研究会がラテンアメリカ研究だったし…

同期では「ブラジル移民」を題材に論文を書いている子もいた。なのにだ…

 

その時は

「日本人移民。あー、アメリカとかブラジルに渡った人達のことね。でも、いわゆる日系2世とか3世の人って日本語も話さないって聞くし、もうあまり日本人ってイメージはないな~」

と、正直そこまで興味をもたなかった。

(率直に思ったことを書いてますので、現地の方に失礼な表現があったら申し訳ありません)

 

極端に言えば、こう思ってたのかもしれない。

ブラジル移民はもう過去のこと、

そこに住む2世、3世の人たちに至っては、もはや〝外国人″

そんな穿った見方を勝手にもしていた。

そもそも、日本人移民=アメリカとブラジルだと思っていた。

 

でも、どうだろう。

ここの2世の人たちは親よりも若く、ヘタをしたら僕らと同年代だ。

それに1世の方もまだまだ皆さん元気に過ごしておられる。

そして何より、町中では、あまりにも流暢で綺麗な日本語が話されている。

 

[戦後の日本人移住者の出身地]

 

[戦後の日本人の移住先]

 

今までのイメージでまるっきし違うじゃないか。

確かに、ここには、今の日本人と変わらぬ「日系パラグアイ人」の方が生活してる。

これをどう理解し、どうやってこれまでのイメージとすり合わせればいいのか。どんどん混乱してくる

 

昨日まで何となしに「へぇー、こんな地球の裏側にも日本人がいるんだな~」くらいに軽く考えていたのが、

自分がここで生まれ育っていても全くおかしくはなかったというのだから。

別にどっちが良かったかとかいう感情は抜きにして、とにかくその可能性はあったわけだ。

 

そうしているうちに、他の人たちも起きてきた。

一緒に近くにあるという生協!まで納豆!を買いに出かける。

すると、どうも見覚えのあるシルエットが。あ、鳥居だ!

 

 

どういった思いでここは作られたのかな?

ここで生まれ育った2世の方々は、これを見てどう思うのかな?

 

そんな疑問が自然と出てくる。

 

もちろん2世の方からしたら、思い出すのではなくて、地球の裏側の日本を想像する他ないと思うのだけれど

いったいどんな思いを馳せるのだろうか。

 

まだ見ぬ祖国を思う…なんていう気持ちなのか。それとも、「自分はパラグアイ人だ。そんなところは知らないね。ただの外国だよ」となるのか。

 

そんなことを考えながら、生協(COOP)へと向かった。

 

「すいませ~ん。納豆ってありますか?」

日系の店員さんだ、もちろん日本語で話しかける。

そして、ついに見つけた!

俺ら:「おーすげぇー、マジであったー!」

と騒ぎ始める俺ら。

 

(ここは大豆と小麦の大規模農業を行っていて、納豆から醤油、他にも日本食品の多くを自分達で作っているそうだ。)

 

でも、こんな俺らを見て、店員さんはどう思ってるんだろうか?

言葉は悪いが、急に日本からやってきて、いつも自分達が食べてる納豆でいちいち騒いでる俺らだ。

どういう気持ちで見られてるのか少し心配だ。

こんなことを思うこと自体が傲慢で、おかしな考えなのかもしれない。

 

生協を出たところに掲示板があった。

日本にいたらどこでも見かけるごく普通の町内会の掲示板のようなものだ。

でも、それを地球の反対側で見る違和感といったらない。

 

そこには、

「日本人としての誇りを持つように」といった内容のことが書いてあった。

そう、ここでの学校教育は,日本語や日本文化に習熟することを願う1世の方々の思い、そして多額の援助をしている日本政府の意向に基づいて、「日本らしさ」の継承,維持することに主眼が置かれているそうなのだ。

このことは、ブラジルやペルーといった他の南米の日本人移住地よりも強く出ているらしい。

つまり、パラグアイの日系社会は現地社会には積極的にコミットせず、現地社会と一定の距離をとってきているそうなのだ。確かに、ここにいれば本当に日本にいるようだ。

 

 

さて、ますます混乱してくる。

では、ここは日本なのだろうか。ここの人たちは日本人なのだろうか。

違うとしたら、どこが違うんだろうか。話し言葉や見た目、雰囲気からでは全く違いが分からない。

 

ここには本当に僕の知らない現代史があるようだ

 

ある意味、アウシュビッツよりも、衝撃的かもしれない。

だって、ここにいるのは同じ国の人たちだから。

 

他の国のことなら、たとえ理解できなかったとしても

「あー、そういうこともあるのね。勉強になった」と、自分なりに何とか納得させることはできるけど

この場合は、自分の知ってる、いや少なくても自分では知っていると思ってた事が、実際来てみたら全く違っていたというんだから、話は違う。

 

見た目も、言葉も、雰囲気も、まったく同じ。

だから、どうも自分の中で消化しきれない。

 

お世話になっている宿で働く2世のアキさんが

このあいだ生まれて初めて日本に行ったという。

 

「どうでしたか?」と聞かずにはいられなかった。

 

返ってきたのは、「やっぱり、すごかったよね。」の一言。

 

その言葉にはどういう含意があったのかは分からない。

察することもできない。

 

だって、自分がここで生まれていて、初めて東京のど真ん中に降り立つところを想像できるだろうか。

自分でさえ、東京に行くとなるとちょっと気負ってしまうというのに..

 

だから、次に訪れる予定のラ・コルメナ移住地では色々聞いてみたいと思います。

1936年に、パラグアイで最初の日本人移住地として始まったこの地で生きる人たちです。

凄く楽しみです。

 

 

さぁ、そんなことをしていたら、もう昼じゃないか。

急いで支度をして車に戻る。

そして、宿の皆さんに色々書いてもらい、出発!

 

・・・・・・・・・・・・

幹線通りをひたすら西へ西へと走る。

6時前には首都のアスンシオンに着いた。

何だか頭もぼーっとしてるし、今晩はマック隣で早めにおやすみ。

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